Sculptor Eiji Nitahara

  • HOME
  • Works-作品
  • Blog-ブログ
  • Profile-プロフィール
  • Contact-お問い合わせ

半世紀を振り返って

和辻哲郎:(1889・明治22年~1990・昭和35年)
        著書:「ニーチェ研究」をはじめヨーロッパ実存哲学の洗礼をうける。
   1927(昭和2年)2月から1928年7月まで海外留学、その後「イタリア古寺巡礼」を残す。
―古代ギリシャ彫刻とミケランジェロ彫刻の対比:サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリの「モーゼ像」とテルメ国立美術館の「ルドヴィチの王座(ヴィナスの誕生)」。
   簡素・輪郭の鮮明・内が外である・内と外の区別のないギリシャ人・全体と調和と晴朗さ・機械的でない美しいシンメトリーの構図・明快で鮮やかな統一、それはあくまで多様の統一・微妙な調和・それに対して、「内なるもの」を、あるいは精神を、外に押し出す(誇張)。
―――2月11日、サン・ジョヴァンニ・ラテラーノ聖堂のキオストロを訪れるが、その中世ビザンチンの影響を濃く受けたモザイク造りの全体の印象に北方ゴシックとは違った明晰明朗なcalonologicaな世界を観て取っている。
―――廃虚についての所感:和辻はローマの郊外、ヴィッラ・アドリアーナの廃虚を訪れた折り、そこには「廃虚の美しさというものが感じられる」とその印象を次の様に語り継いでいく:・・・糸杉のつっ立っている合間からは遠くに一面のオリーヴの畑が見え、見渡す限りの美しい緑の中に、いかにも破壊そのものを具象化した様な、ゴツゴツした煉瓦の壁が残っている。もしこの壁がこれほど堅固でなかったなら、又、それを取り巻く自然がこれほど温順でなかったら、こういう廃虚の美しさは現出してこないであろう。
もし廃虚というものの標準をこういうところに認めるとすれば、日本には廃虚などというものはない、と言ってよい。
―――シヌエッサのヴィナス:・・・昨年、児島喜久雄君はこの像がギリシャの原作に相異ないこと、その作者は紀元四世紀の代表的彫刻家の一人であるスコパスと推定せられること、などを主張した論文を発表した。・・・・これほど鮮やかに原作としての印象を与えるものがどうしてローマの帝政時代の作だなどと言われるのか、全く理解に苦しまざるを得ない。しかもその美しさはパリにある「ミロのヴィナス」の比でなく、今まで発見されたヴィナスの裸像のうちでこれほど優れたものはないと言ってよいのである。この美術館に並んでいる実に多数な作品全部を持って来ても、このただ一つの彫刻より軽い。・・・・この
ヴィナスは上半身のかなりの部分が欠損しているトルソーであるが、しかし残っている下半身だけでもこの彫刻が神品であることを感じせしめるに充分である。・・・・あらゆる点が中から湧き出して我々の方に向いている。内が完全に外に現われ、外は完全に内を示している。それは「霊魂」と対立させた意味の「
肉体」でなく、霊魂そのものである肉体、肉体になりきっている霊魂である。人間の「いのち」の美しさ、「いのち」の担っている深い力、それをこれほどまでに「形」に具現したことは、実に驚くべきことである。そういう「いのち」の秘密を肉体から引き離した領域に求めるようになると、このような表現は不可能になる。内は隠れたものとなり、外はただ包むものとなる。表現は横に滑ってしまう。・・・・この作の特徴は(希有なる)その雄大さ、雄渾さである。剛宕(ごうとう)とさえも言えるような女体の美しさである。
 
―――和辻哲郎の古代ギリシャ認識の一端:彼はパレルモの国立美術館のセリヌンテの遺物から一つの仮説を推論する。・・・・古拙『アルカイック』な作を刻んでいた時代にあっても、すでに「イーリアス」や「オデッセイア」を持っていたのである。だから彫刻が稚拙だからと言って文化がまだ低かったというわけでは決してない。『出来ない』のではなくして『しようと思わなかった』のであろう。しかし「しよう」と思いをいたすとともに、こういうふうに迅速に上達するところが、どうもただごとではない。・・・(*和辻哲郎は続けて哲学の歩みについても同じことであったと指摘する)。そしてその事実から推論しながら更に次のように続ける。・・・・今のところ、ギリシャ人の文化の発達の仕方が人類の古代の文化の発達の仕方を代表する様な形になっている。しかしギリシャ人のやったことは、どうも実に例外的,天才的である。どの民族でもそういうふうに行くわけではないだろう。ギリシャ人は人類通有の文化発達の仕方を代表しているのではなく、その天才的な才能によって人類をあるべき方へ引きずって行ったのである。
そういう民族が傍におり、その民族の仕事によって教育されたということは、地中海沿岸民族の、引いてはヨーロッパ全体が非常に幸福であったといわなくてはならぬ。そういう点からもギリシャ人の偉さをつくずく感じざるを得なかった。               
(和辻哲郎、古寺巡礼より抜粋)
 

参照になる資料

―観世音菩薩: 救済の菩薩/(聖観音・如意輪観音・十一面観音・普賢菩薩・観自在)
―:鑑真:   唐代の僧・戒律の実践を目的にする日本律宗の祖・AD753大陸より奈良へ
―:唐招提寺: 木彫・伝薬師如来像
        伝衆宝王菩薩像
        伝獅子哮菩薩像
        ad700年代後期、中国の工人による唐代8世紀中葉の様式
―:蛾眉山磨崖仏(四川省):不賢菩薩示現霊場(*五台山、天台山と共に中国三大霊場の一つ。現在も
                       信仰を集めている)
―バーミアン:(アフガニスタン)磨崖仏・石窟寺院~12世紀ジンギスカンによって破壊される。
―仏教伝来: 600年代、朝鮮半島西南の百済より漢文字経典・仏像伝来
          (百済は660年前後に唐・新羅によって滅ぼされる)
―隋(581-619)、唐(618-907)、首都はいずれも長安
―京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏像:飛鳥時代(500年代から600年代初期)、説・朝鮮半島渡来仏・
    赤松材)
―法隆寺金堂・釈迦三尊(623):仏師・司馬鞍首止作
―百済観音(650)
―中宮寺・菩薩半跏像(650年前後・木彫)
―興福寺・阿修羅(八部衆):天平時代(734)
―東大寺戒壇門・四天王
―向源寺・十一面観音像(850頃 天平)
―興福寺・仁王像阿形(定慶・1190)
―東大寺・仁王像(運慶・快慶~1190-1199)       
 
―――――――――――――――――――――
 

そして私の歩み

1.造形言語の意識:造形はその作家固有の造形言語によって模索され形成されていく。それは思索しながら文脈を紡ぎ、一体の存在に完結するのを念ずる行為に他ならない:私自身について言えば、イタリア半島を縦走する山岳地帯の頂きに散在する街や邑との出会いが、己が語るべき造形言語の原素材になり得るだろうと覚醒させた。そこに世代を重ね重層する時間の蓄積の中から生成されてくる強靭な生命営為の言葉と文脈を汲み取ったからである。
2.古代ギリシャ芸術との出会い:(イタリア半島、シチリア島、アテナイ、デルフォイ、オリンピア、ぺロポネソス半島)・【Paestum, Segesta, Atenai、Delphoi, Olimpia, Peroponesos半島 他】:
―ギリシャ・アルカイック期から所謂「厳格様式」:
   1.ぺプロスのコレ(少女):BC540-530、118CM、大理石、彩色
   2.クロイソスの墓像:BC520、194CM、大理石、彩色
   3.ピレウスのアポロン:BC520―500、192CM、ブロンズ像
 
   注目したいのはこれ等の彫像がすべて直立の姿勢で立っていることである
(*これらアルカイック期の彫刻は礼拝の対象、奉納像、つまり直接、間接に宗教(神)に奉仕する美術である。裸体表現の動機と根拠は神々に捧げられる男性全裸による祭典競技に由来するものであり、・・・「完璧に均整のとれた肉体と精神の一致」こそが神々の喜ぶものであり、その彫像に神々は宿ると考えた。
彫像は「善にして美」・カロスカガトスの姿であらねばならなかった)。
 
――クラシック時代を代表する「デルフォイの御者」:(BC470、180CM、ブロンズ像)も、その神に捧げる代表的な彫像である。
――Riaceの「英雄像」:1972年イタリア半島南端のRiaceの海底で発見されたブロンズ像。修復に9年をかけ現在Reggio Calabriaの国立博物館所蔵となっている。ギリシャ古典期の作。
――ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの青銅騎馬像:古代ローマ五賢帝アウレリウスは文武によって古代ローマに君臨するが、戦争を嫌悪したストア派(創始者・キプロスの哲学者ゼノン。ストアはアテナイの講堂を指す)の哲学者であった(ストイック)。ミケランジェロの設計になるローマ・カンピドーリオの広場に立つ4メートル余の青銅騎馬像は壮大と云う外ない!
 
   最後に私は「古代ギリシャの造形芸術の根幹を一貫して流れるものは神殿建築の柱そのものであり、「神殿の柱は不動にして神聖に立つ人間の姿であった」、という認識である。*アテナイ・アクロポリスに建つ「エレクテイオン」(アテナイの王、エレキテウスの家)は複数の女人柱・ペプロスの乙女に支えられている」。
更に、もうひとつ:それは生の歓びと死者への弔いに関わった陶器:ギリシャ・アルカイック期の陶器の均整美と陶器絵の文様の連続が奏でる音楽的律動、それは美しい生命の流れとなり古代ギリシャ芸術の全てにメビウスの環をなして調和と輪廻の叙事詩を奏でている。古代の彼らは人間の運命=生と死を神々を交えた叙事詩にまで止揚したのだ。ギリシャの文化は神々が人間の生と死に深く関わった文化である。・・・・【私は、その全てが奏でる音楽に耳を傾けながらCalonologicaの世界に入っていく。
 
=======================
3.  広隆寺、竜安寺、金閣寺で体験したこと:彫刻、庭園、建築との出会い:
   1968年夏、イタリア滞在8年を経た頃、ひと月ほど帰国の機会があって京都を訪れた。暑い
真夏の一日だった。
  1.広隆寺、国宝・弥勒菩薩半跏像との初めての出会い、それは余りにも衝撃的であった。:恐らく世界に比類のない木彫仏の示す仏教世界の深淵と美に魂の底まで洗われ、いずれ祖国の伝統文化に回帰しなければとの熱い想いで一杯だった。
  2.竜安寺は造園の妙、それは謂わば非条理の理、非条理の美、静寂を呼吸する美の世界の存在を暗喩していた。それは融通無碍に呼吸する生の実相への悟入を黙示していた。
  3.金閣寺は四季の夢幻の自然を映して移ろう建築の妙、金閣寺は池面に金色の華となり水鳥となり空からの光を受けて佇む。それは自然と共に終わることなく変容する不動の調和。
  
(この豊穣な自然が育んできた文化の歩みを省みる時、この国に生を享けた私は目眩めく喜びと
無限の可能性を感じる)
 
   私は今、自分がこれまで辿って来た造形の営みの彼方に、三つの言葉、「非連続の連続」、
「非条理の理」、「非条理の美」を夜空の星々を見上げるように見ている。そして斑鳩の里にたおやかに立ち幽かに微笑む百済観音の姿を想い浮かべる。
 
      ―――――――――――――――――――――――――――――――――
 

II.

私の彫刻との出会いと歩み

   私が彫塑との最初の出会いで、ひどく直感したことは、彫刻とは常々不安に曝されている己の精神と肉体の存在を、生命力と精神を内在する形ある量体の存在として覚醒しようと試みる全身的な行為(精神と肉体を一体化した行為)であって、その結果、それは不動の表象形象に結晶していく、ということであった。私は中学を終え23才の頃まで人生を導いてくれる確かなものを探しあぐねておおいに悩んでいた。最初は音楽にそれを求めていたと思う。だが彫塑との出会いによって、その後はこの確信を揺るぎないものとしながら造形を今日まで続けている。

   1960年、満29才を近くに迎え、私は祖国を離れイタリアに向かう。以後、1978年に帰国するまでの間、ヨーロッパ各地を訪れ、その間、一時帰国の機会を得て京都に旅する機会があった。そこで出会うこととなった貴重な体験が、私に異なる異質の文化体系の狭間に在る私自身を強く意識させただけでなく、その意識の底流に分裂の畏れを抱きながらも、いずれはこれを克服しながら進まねばなるまいという予感を感じていた。だが如何様にして?・・・そしてその答は?・・・此の事が私の歩みの中で折りにふれ影の様に問いかけてくる言葉であった。

   このたびの「観音菩薩像」も又、その答を求めての一里塚であるのかもしれない。今、このことに関連して少し話題を変え、異質の文化との出会い、それによって生じる葛藤、その克服について語ることにしょう。

――――――――――――――――

  古代ギリシャ・ローマに始まりルネッサンス期、15,16世紀までの彫刻を、日本の自然・風土に置いて観るとする。また逆に飛鳥から鎌倉時代に至るまでの日本の彫刻をギリシャ、イタリアの自然・風土に置いて観るとすれば、どんな印象を受けることになるのだろうか?・・・先ずは木と石の文化の違い、異質の文化である何かを際立たせることにならうだろうが、それと同時に人類の文化の共通分母として何かが存在することに気付くことにもなるだろう。その認識の度合いは恐らく個々の心のひろがり、洞察の質と深さによって異なってくるだろう。異文化を強く体験してきた作家に生じる謂わば不連続と連続性の感覚体験は、同時に異なる両者の歴史時間を創造の坩堝に投じながら、どの様にしてもう一つの形式、謂わば第三の形式に収斂していけるのだろうか?・・・・これは単に芸術・文化の分野に留まる問題ではなく、地上に生きる人間の全ての営為(思考、行動)に求められている命題ではないのだろうか?・・・

此処で理解を深めるために一人の哲学者と、二人の作家(作曲家と陶工)を紹介しよう。

1980年代の半ば頃であったかと思うが、イタリア文化会館館長デ・マルキス氏時代のさる女性キュウーレイターのお宅で哲学者・今道友信氏と作曲家・武満徹氏を囲んだことがあります。その折、今道氏の語られた一つの詞が大変に印象深かったのを想い出します。それはラテン語の合成による学問名で

CALONOLOGICAという言葉です。

            CALON     美

            ON       存在

            LOGICA    理性

の三つのラテン語の合成語で、この三つの言葉は生命(生)と時間を内在しながら「存在」が「美」であり、「美」が「存在」であることを暗喩しつつ形象と音像に結実していく。・・・その夜はこの言葉をめぐって話が弾んだ。・・・ 思うに、武満徹の作曲のプリンシプルはこの言葉に求められ集約されるのではないのだろうか?

――武満徹(1930-1995)は異なる二つの文化の伝統楽器によるオーケストラ編成によって両者を融合する表現する表現様式を提示しながら伝統文化と異文化との激しい接触で生じる文化間の断絶と不連続の超克を試みた。

 

――又、当代・第15代楽家主人:楽吉左衛門(1949覚入の長男として生まれ、1981年に15代吉左衛門を襲名)は、一時ローマに住まい、その異文化の厳しい体験を経て、どの様に楽焼の伝統を拓いていくのか?・・・現在、彼の作陶はその苦闘のただならない様相を鮮烈に物語っている。荒野の地平に不滅の星を追う狼の様に!・・・私は彼の明日に大いなる期待を抱いている。

 (*楽美術館2006・Ⅸ・11日発行:「光悦と楽導入・二つの楽茶碗 二人の交友」に注目してみよう。

I.

2007:、私の心象スクリーンに浮上してくる「観世音菩薩」のイメージは何処より生じ、どの様な形象の菩薩像に結実するのだろうか?・・・
   初めにこの仕事を請われ既に二年の歳月が過ぎていた。イメージを求め未知の山野を彷徨う日々、ようやく私の想念に浮上しては去来する「菩薩」の姿は、朝靄を透して衆生と共に祈る女人菩薩の立ち姿であった。菩薩は東雲(しののめ)の虚空に住まう大いなる存在に向かって静かに立ち、衆生と共に只管に「祈る」虚心の姿であった。やがて化身の菩薩は葛城・金剛の山嶺を背に磨崖仏となって衆生と共に祈る全体像に結ばれていった。・・・
   ―「祈り」とは何なのか?・・・それはシンメトリーの姿形によって己としての存在を超え、無の境地に祈念を求める行為であり形であって、本来、人間に内在する黙約であったのかとも?・・・その比い希なひとつの例として、唐招提寺の木彫仏、薬師如来像を挙げよう。これは753年、僧鑑真に伴って渡来した工人僧の作といわれる。鑑真が伝え弘めようとする仏法の真髄は、その木彫仏に内在する霊性の大きさで人の魂を包んで行く。鑑真は言葉を超えて遍く働きかける仏像表象の力を熟知していたに相異ない。
   ・・・人が祈りを喪失したとすれば?・・・「祈る」行為は本来、時代を超え普遍的に人類の心性に根ざした行為であったと思われる。それが希薄になり失われかけたことも多々あっただろう。しかしその底流さえも涸れてしまったとしたら我々の存在はどういうことになるのだろうか? 恐らくは荒野を彷徨う奇怪な群れでしか在りえないのではないのか?・・・とすれば二十一世紀は、地上に生きる誰もが多少なりともその畏れを抱かざるをえなくなった時代とでも言うべきかもしれない。
――――――――――――
 

エピローグ

「何故、貴女は宇宙の果てまで観察なさりたいのですか?・・・何か役にたつとか」
「・・・いいえ別に?・・ただ一つだけ、この無限とも無とも思われる果てしない宇宙の星屑、
この地球に生まれ、ほんの束の間だけ生き、死んで逝く人間とは一体何だろうか?と、
ふと思う時がありますの」、・・えっ?!・・どこかで耳にしたような言葉、確かあれは・・
あの方の・・・      
終わり
 

エピローグ

「何故、貴女は宇宙の果てまで観察なさりたいのですか?・・・何か役にたつとか」
「・・・いいえ別に?・・ただ一つだけ、この無限とも無とも思われる果てしない宇宙の星屑、
この地球に生まれ、ほんの束の間だけ生き、死んで逝く人間とは一体何だろうか?と、
ふと思う時がありますの」、・・えっ?!・・どこかで耳にしたような言葉、確かあれは・・
あの方の・・・      
終わり
 

年次

1950:上京、動機はポール・ゴーギャンとの出会い、美の世界への憧憬と表現者として生きる決意。
    (最も苦悩と苦難の状況の中で!)
1952:(S27年)東京芸大入学:美学美術史と実技
1954:(S29年、23歳)彫刻(粘土塑像)との初めての出会い。そして初めての創作発表:(私自身が彫刻に見出され、共に生きる勇気を獲る)他方、戦後の開かれた日本には海外からの美術の
 奔流、しかし激しさを増していく学生運動:安保闘争
1960(S35年、29歳)イタリア・ナポリ国立美術アカデミー留学、安保闘争の真っただ中で・・・
    ナポリ:人間はカオスの真っただ中に生きて呼吸し、そして溢れ出る生の讃歌、ヴォーメロの丘 に住まい、カプリ島を遠望する日々・・・。
1961:ローマ移住
     ROMA:ローマとは僕にとって、重層する壮大な歴史時間の化石・・今と昔・・永遠と現存・・
光と闇・・底知れぬ生の悦楽・・生と死の交差する幻覚・・生者を巧妙に装った永遠の都ローマ・・・「お前は生きながら死に、死にながら生きているのだよ」と囁く声・・・、こうして生と死が僕自身に寄り添って愛おしく狂おしく背中をすり合わせ一者の存在の中で溶け込んでいく不思議な幻覚。・・・、
1963:南イタリアとシチリアの旅、パエストゥムは僕にとって最初の古代ギリシャ遺跡との出会い。
     その時、私を襲った目眩めく衝撃と幻覚は今も忘れることはない。――大空の果てに映し出され消えていくローマ、ローマはあだかも生者の仮面をつけて戯れる死者の快楽の廃虚となって映し出されていく様な幻覚、生きながら死に、死にながら生きて快楽の重荷を背負うローマの真昼の幻影――、目前の視界に広がる神殿のドーリスの列柱の発する壮大な音楽とパトス:人間の生命が美そのものの根幹であることを予言し証かそうとした壮大なエネルギーそのものであったと云う外に適切な言葉はない。
自分自身の造形言語を求めて:アペニン山系の廃虚の砦、邑里を彷徨する日々は生と死、繁栄と滅亡、生と時間の永劫回帰・輪廻について思索する日々であった。
1964:ミラノに住居を定め、ようやく彫刻創作の実現が訪れる。そしてそれに伴う多種多様のアルバイト。
1968:一時帰国・・・京都・広隆寺・竜安寺・金閣寺を訪れる。
     わが祖国の美の伝統、その真髄に触れる思いで感動におののく。そしていずれの日にか帰国し
     なければと決意する。
*スイス、東西ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリー、フランス、スペイン、アイルランド、
 ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ソ連邦、ブラジル、アメリカ等旅行。
1978:帰国・11月「滞欧作による彫刻展」:東京日本橋高島屋画廊
1979:住居を町田市つくし野3-4-30に定める。
1983:第2回彫刻展:東京日本橋高島屋
1991:彫刻個展:「玄い空間の詞」:EMORI画廊(東京表参道)
1993:佐藤美術館にて彫刻個展「夢鏡・彫刻による二田原英二の世界」および「講演会―イタリアか 
     ら日本へ、制作の軌跡―廃虚よりの出発」
1994:彫刻個展:なるせ村田画廊・町田市
 

彫刻との出会いに至るまで

プロローグ

このページのTOPへ
彫刻家二田原英二公式ホームページ