何もかも貴兄に打ち明けてしまいました。ご迷惑この上ないと恐縮に存じます。平にお許しください。
生前に兄が恋した女性、今は嫁いで母となりY.Nを名乗る夫人の思わぬ出現、それによって驚く程鮮明に、今まで知ることのなかった内面の影の部分から鮮かに別の姿を顕わしてきた兄の存在、その二人が何の前触れも無く文字通り突然に私の人生の前に立ちはだかったのは、斑鳩の里をその舞台として深く中宮寺・女人菩薩伝・如意輪観音に関わるところでした。
どれ程僕を震撼させたことか! その衝撃は強く、私の人生と学問は根底から打ち砕かれ瓦礫と化していくように思われました。
生死の岐路に立って愛し合う若い二人を前に、美はどの様にその深層を開示して行くのか、その命と魂と肉体に深く関わる人間存在の赤裸々な場面で、愛は美によって授けられ、美の抱く絶対時間のなかに結晶していくのだろうか、美は愛によって目覚めまた愛も美によって目覚め、互いに成長しながらその生命を顕わし輝き永遠の星の座に近ずいていくのだろうか?
その時二人は若かった。二人は初めて愛神エロスに魅せられて愛の矢に射られた。男は招かざる「死」を運命として受け入れ、自分のタナトスとしてエロスに重ねようとしていた。男は更にその地上の女性に向かう自分のエロスを美しい女人菩薩に重ねることによって、菩薩が“幽艶愛悦の権化”として顕われ、自分を迎い入れるのを念じていた! こうした二人を巡る運命的な愛の実存に対して中宮寺・女人菩薩はその美の深層に一輪の白い蓮の花の開花を現眩して現われてきたのです。
兄はその時の自分の心と魂と肉体の真実を和辻哲郎先生の文脈を換骨奪胎しながら明らかにしてくれました。同時に兄は人間と美の関わりについて根底から考え直すことを問いかけていました。美が愛を介在とした人間の生死の狭間に現われる時、人知では及び知ることのできない深い存在のレアリティーを垣間見せるのを知らせて呉れたのです。
貴兄には解かっていただけるだろうと思います。何故私が重大な岐路に立たされてしまったのか、そして私が如何ほど悩み苦しんだかを・・・。その後、私の選んだ道を貴兄も又、あまりに文学的に過ぎるとやはり言われるのだろうか? 私自身が選び歩んで来た道がなんであったかを後悔はしているのだろうか? いや私は誇りにすら思っているのです。私をもう一度人生の初心に立ち帰らせ、美に携わる姿勢を根底から問い正して呉れた二人に感謝してもしきれない気持ちで一杯なのです。
私は人間存在の意味を問い続けることによって、愛が光を当てるその生と死の幽艶に開示して来る深層の美を求めていきたい。これは私の学問の覆がえし得様もない確固とした前提であり、それは貴兄にも申し上げたと思いますが、私の兄を含め、国家の虚妄の正義のために尊い「命」を強奪されながらも、健気にも自身の「死」を勝ち取っていった若い純白な魂への鎮魂の弔いでもあるのです。
貴兄には誠に申し訳ない。つい激しやすいものですから読み辛かったことと思います。長い文面になってしまいました。もっと書きたいことは山ほどありますが、断念します。
最後になりましたが、貴兄のお手紙の中に、とても氣になって離れない言葉がありました。“・・・そして醒めれば何事もなく不動の姿勢のままにおわします。端正整合の形の中に・・・”
又、同じようにY.N.夫人の手紙のなかにもそれと似たようなことが...、“この方も菩薩様と同じよう毅然としてお優しい姿勢で、云々・・・”書きつずられています。若しかして貴兄がおっしゃる「謎を解く鍵」とは夢自体ではなくて、夢から醒める時、つまり薄明の空間から現実の明るみに出た時、或いは明るい中から薄暗い堂内に入った時、最初に目に飛び込んで来る現実の菩薩像の純粋な造形的な印象の中に潜んでいると言うのですか? 貴兄は造形家でもあるのですから何か確かなことを掴んでおられるのだと思います。そう言えば和辻博士は菩薩像の造形については多くを語ってはいません。博士にしては心情的な思い入れのため、目が造形の表面に流れ文学的印象論に偏っているようです。
・・・・何かが見えて来るような気がしてきます! 紫紅色の靄の向こうに今迄に見たことも無い・・・視覚的抽象だろうか? 否、言葉だろうか? 貴兄の助けが必要なのです!なんとしても助けて頂きたい。貴兄の御都合に合わせお会いする機会をお恵み下さい。
貴兄のご健勝と益々のご健闘をお祈りしつつ・・、
敬具
199X年X月X日
S. I.
R.O.様