Sculptor Eiji Nitahara

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(見知らぬ人からの手紙から「優艶」) 3.

Y子様
    Y子様、おめでとう。二十歳になった貴女はどんなに眩いことだろう。「ああ、なんと美しい!」僕は今、貴女の傍らで叫んでいる。感じるでしょう・・・僕の賛嘆のため息・・貴女が生きていてよかった。本当におめでとう。でも、日本は生きているのだろうか?Y子が生きているのですから・・、きっと生きている。・・そう信じよう。
あれから三年の月日が過ぎました。貴女への約束の封が今、切られたのです。手に触れ目に見える姿の僕は最早この世にはありません!・・無念です。ただただ言葉を失い・・・。
    でも僕はY子に永遠の言葉を残しましょう。“一年に一度、二人は会えるのです。共に
過ごした斑鳩の日に、二人が一輪の白い蓮の花になった日に、二つの魂が女人菩薩に宿った日に、二人で「白い蓮の花の日」と名付けた日に!
    二年前、貴女に何としても伝えておきたいことがありました。二十歳の熱い命に、心も魂も激しい欲望も住まう赤裸々な人間の心情を伝えたかったのです。でも当時十七歳の貴女に、それを表白するだけの勇気はありませんでした。でも一瞬、脳裏に閃いたことがあります。それは僕が師と仰ぐ和辻哲郎先生の著書、「古寺巡礼」の中にある言葉の文脈をそっくりそのままお借りして、僕の心情を表白する言葉に組み替えてみると言う事です。決して公には許されることではありませんでした。身勝手な弁解かも知れませんが、帰らざる出発の日が迫っていました。それに僕にはっきり言えるのは、和辻先生のあの文脈の部分は、ご自身の心情を無理に別の言葉
に託して道徳家風に装っておられるのです。ご自身では判った上でのことだったのでしょう、その含羞の表現が多くの読者に共感と感銘を与えたのだと思います・・・。僕の貴女への最後の「詞」(ことば)を、『幽艶』と題して此処に残しましょう。
 
としふりて
おもいおこせよ
斑鳩に
恋し面影
今も微笑む
――――――――――――
『幽艶』
 
   『懐かしいあの女人は、六畳間の中央に腰掛を置いて静かにそこに座していた。後には床の間があり、前には小さな経机、花台、綿のふくれた座布団などが並べてある。右手の障子で柔らげられた光線を軽く半面に受けながら、女人は神々しいほどに艶麗な「魂の微笑み」を浮かべていた。秘かに官能の香りがあって、それはもはや「彫刻」でも「推古仏」でもなかった。ただ私の抱擁に心から身を委ね・・そしてまたその抱擁に生き生きと答えてくれる・・希有なる貴い生命の愛の昇華を静かに思念するそのものの姿であった。私はしみじみとした情念に身を委ねながら、想い募る恋慕の心でその顔を見守った。
   どうぞお側近くへ、と婉曲に尼僧は、「愛の僕」の「面接」を許した。私はそれを機会に奥の六畳に入って、「おそば近く」にじり寄ったが、しかしその心持は、尼僧が親切に推測してくれた様な面接の気持ではなくて、全く文字通りに無我の一体に溶け合って、「死の法悦」に近ずくことであった。
   あの肌の漆黒の深みを湛える艶は実に不思議である。女人が木の像でありながら溶銅の熱を秘めるのはあの艶のせいだと思われる。またその艶が、微妙な肌の起伏、微妙な肉の弾みに実に鋭敏に反応し、妙なる官能を喚び起こす。その為に顔も繊細で柔らかな表情が現われる。あのうっとりと閉じた目に、しみじみと味あい尽した愛悦の惜涙が、実際に光っているように見えため息が、本当に揺らいで感じられるのは、確かにあの艶のおかげであろう。あの頬の恥じらい染める美しさも、その頬に指先をつけた手の、ふるいつきたいような形のよさも、腕から肩の清らかな柔らかさも、あの艶を除いては考えられない。ただそれは女人にこの様な自然の翳りの中で相まみえる者にしか、この像の面影は伝えられないのである。』
                ・・・・・・・・・
   僕はただうっとりとして眺めた。心の奥底でしめやかに静かにとめどなく涙が流れ、全身が溶ける歓びで震えていた。ここには秘められた愛の悦びと悲哀との盃がなみなみと満たされている。まことに至高の愛の宴であり、また愛宴とのみでは言い尽せない神聖な美しさである。
・・・・・・・・・
   この像は本来観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも貴顕の麗人と呼ぶのが相応しい。・・・・・・・・・その初々しさはあくまでも「処女」を装う。がまたその複雑な表情は、人間を知らない「処女」のものとは思えない。と言って「女それ自体」ではなおさらない。・・・・しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何であるか。・・・幽艶愛悦の霊的権化である。人間心奥の霊性に由来した愛宴法悦の願望が、その求むる所を人体の形に結晶せしめたものである。私の乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術なかで比類のない独特のものではないかと思われる。これより力強いもの、威厳のあるもの、深いもの、あるいはこれより烈しい陶酔を現すもの、情熱を表現するもの、・・・それは世界に希ではあるまい。しかしこの純粋な愛悦と悲哀との象徴は、その曇りのない純一性の故に、その優しい至高の官能性のゆえに、恐らく唯一のものと言ってよいのではなかろうか。・・・・・
・・・・・・・・・    
    上宮太子の情生活が、ほとんど情死にも近い美しい死によって、・・・夫人は王と共に死んだのである。王の死は自然に夫人の死を伴ったのであった、・・その死によって推察せられるならば、そこには(肉体の官能幽艶によって)魂の融合を信じまた実現したしめやかな愛の生活がある。そうしてそれは、やがて結論として中宮寺観音をつくり出すような生活なのであった。』
―――――――――――
    Y子様、どうかこれを貴女の許にだけ留めおいて下さい。弟に形見といって僕の大切にしていた「古寺巡礼」の書を残していきます。縁あってお会いになる機会があれば、それも僕達の「白い蓮の花」の宮であれば、弟に貴女へのこの文を読ませてやって下さい。想い募ること、貴女へ書き残したいことが大波のように寄せてきます。しかし時間がありません。全ては僕達の斑鳩の女人菩薩様に委ねることにしましょう。左様なら、私の愛する唯一人の君、「永遠の白き蓮の花」!
未だ此の世に在る日に、
       K.I
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彫刻家二田原英二公式ホームページ