(A BRIEF HISTORY OF TIME)を読んでいる。
面白い。僕は思いつくまま余白に感想など書き添えた。
Ⅰ.人間の頭脳は本来、宇宙構造のコピーであろうとしている。そこには両者がアイデンティティを確立しようと試みる何かの意志が働きかけている。・・・
Ⅱ.地球が宇宙の中心である。と、そう考えたのは人間の過信と未熟な知識から生じたのだろうか?確かにそうかもしれぬ。が、創造主の隠された巧まざる意図があるのでは・・・創造主は先ず人間が宇宙を前にして自身をもつよう意図された。
Ⅲ.第一原因・・・零とか無、非存在の存在とか、言葉にしたら奇妙な語呂、言葉にならないイメージ、言葉の掌からすり抜けていくイメージ、・・・だから人間は「神」としか言う外ない。
Ⅳ.およそ一万年前に遡る文明の夜明け、百億乃至二百億年が経ってようやく宇宙は、自分自身を映す鏡(人間)を創り出し、それも1万年程前から、らしい像を結び始めた。(人間の頭脳、イメージと言語)
Ⅴ.零点に於ける無限大(密度)、思考の抽象性と物質の境界を超える想像力がくり出す言葉、そして物理的定義不能、不可知。
Ⅵ.所で何故、人間の知性も感性も宇宙の完全な記述を欲するのか?何か忘れてしまったもの、失ったかも知れないものがあると、「心」のどこかで感じているからだろう。そのように感じさせる何かの働きが遠いみちの彼方から(多分、物理的定義不能な零点)からやってきているからだろう。それにその心は美しい存在としてその像(すがた)を夢みようとする。だから美は空の空、形而上の事柄なのだ。
Ⅶ.何千億の星と銀河、赤色偏性宇宙の膨張・・・益々面白い。追えば追う程宇宙は益々逃げて行く。気が付くといくらでも大きくなる。いくらでも、とは窮まる所なく光を追っかけながら光を越えるあてもなくということだ。
Ⅷ.1951年、カソリックとビッグバン理論・・・神の存在を揺るがす物理学理論なんかありあしない。・・・ということだったのかな。
多分、「神は光なり。全てをあまねく照らす光なり。全ては光を越えること能わず」と。
Ⅸ.零と無限大を消す方法、量子効果を考慮に入れると特異点は消えるという。波の粒子。形而下と形而上の間に、物質と精神の間に、言葉と言葉を拒むイメージの間に、時間と永遠の間にトンネルが見つかったというわけだ。それはお目出でたい。そこで並みの粒子がトンネルを通過するというわけだ。古代のギリシャ人は陶土を捻りながら波状文様と人間の間のトンネルを難なく発見した。これをトンネルの原型(アルケタイプ)ということにしよう。彼等は最初の波の粒子の民だった。
Ⅹ。クオークと反クオーク、宇宙と反宇宙、物質と反物質,色(しき)と空(くう)のようでやはり違う。色(しき)の棲(すみか)と空(くう)の棲(すみか)ということか。
Ⅺ.対称性の法則、CAPと人間の姿だが、心臓は左に一つしか無い。脳も左右とでは機能を異にする。
Ⅻ.光と重力と暗黒点、特異点は質量の究まる零点、そして変相点。
ⅩⅢ.仮想粒子と非存在の存在、生命は何処へ行く?
ⅩⅣ.1981年ヴァチカンでのイエスズ会主催の宇宙論会議、神と宇宙と。いろんな会議、シンポジウムが花咲くなかで、この会議はとび抜けて面白そうだ。
ⅩⅤ.「宇宙はただ存在する」と、ホーキングのこの言葉から僕には次のような想いが浮かび上がってくる。・・・―創造主の夢に咲く蓮の華、人間はその華を映し出してみせる鏡であろうと直覚し、創造主の確かな鏡であり続けようとしている。「美しい花、蓮の華」、人間は創造主が自らの夢を映し出すために創られた鏡であるばかりでなく、それに感応同調しようと試みる存在であるのかもしれない。花があまりにも美しいので、創造主は、「もっと美しいはず・・・」とたえず人間の心に囁き続ける。量りしれないナルシズムとエクスタシー、そして美の根底にあるもの。
抒庵