1950:上京、動機はポール・ゴーギャンとの出会い、美の世界への憧憬と表現者として生きる決意。
(最も苦悩と苦難の状況の中で!)
1952:(S27年)東京芸大入学:美学美術史と実技
1954:(S29年、23歳)彫刻(粘土塑像)との初めての出会い。そして初めての創作発表:(私自身が彫刻に見出され、共に生きる勇気を獲る)他方、戦後の開かれた日本には海外からの美術の
奔流、しかし激しさを増していく学生運動:安保闘争
1960(S35年、29歳)イタリア・ナポリ国立美術アカデミー留学、安保闘争の真っただ中で・・・
ナポリ:人間はカオスの真っただ中に生きて呼吸し、そして溢れ出る生の讃歌、ヴォーメロの丘 に住まい、カプリ島を遠望する日々・・・。
1961:ローマ移住
ROMA:ローマとは僕にとって、重層する壮大な歴史時間の化石・・今と昔・・永遠と現存・・
光と闇・・底知れぬ生の悦楽・・生と死の交差する幻覚・・生者を巧妙に装った永遠の都ローマ・・・「お前は生きながら死に、死にながら生きているのだよ」と囁く声・・・、こうして生と死が僕自身に寄り添って愛おしく狂おしく背中をすり合わせ一者の存在の中で溶け込んでいく不思議な幻覚。・・・、
1963:南イタリアとシチリアの旅、パエストゥムは僕にとって最初の古代ギリシャ遺跡との出会い。
その時、私を襲った目眩めく衝撃と幻覚は今も忘れることはない。――大空の果てに映し出され消えていくローマ、ローマはあだかも生者の仮面をつけて戯れる死者の快楽の廃虚となって映し出されていく様な幻覚、生きながら死に、死にながら生きて快楽の重荷を背負うローマの真昼の幻影――、目前の視界に広がる神殿のドーリスの列柱の発する壮大な音楽とパトス:人間の生命が美そのものの根幹であることを予言し証かそうとした壮大なエネルギーそのものであったと云う外に適切な言葉はない。
自分自身の造形言語を求めて:アペニン山系の廃虚の砦、邑里を彷徨する日々は生と死、繁栄と滅亡、生と時間の永劫回帰・輪廻について思索する日々であった。
1964:ミラノに住居を定め、ようやく彫刻創作の実現が訪れる。そしてそれに伴う多種多様のアルバイト。
1968:一時帰国・・・京都・広隆寺・竜安寺・金閣寺を訪れる。
わが祖国の美の伝統、その真髄に触れる思いで感動におののく。そしていずれの日にか帰国し
なければと決意する。
*スイス、東西ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリー、フランス、スペイン、アイルランド、
ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ソ連邦、ブラジル、アメリカ等旅行。
1978:帰国・11月「滞欧作による彫刻展」:東京日本橋高島屋画廊
1979:住居を町田市つくし野3-4-30に定める。
1983:第2回彫刻展:東京日本橋高島屋
1991:彫刻個展:「玄い空間の詞」:EMORI画廊(東京表参道)
1993:佐藤美術館にて彫刻個展「夢鏡・彫刻による二田原英二の世界」および「講演会―イタリアか
ら日本へ、制作の軌跡―廃虚よりの出発」
1994:彫刻個展:なるせ村田画廊・町田市