キーツ『ギリシャの壺によせて』の最後の詩片に【壺は現はの人の命の悦びの底に流れる悲しさを映し、いつまでも止どまり人々に語りかける。“美は真理であると、また真理も美である”と、生きて意味あるは誠にこれしかない】
又、パウル・クレーの墓碑の言葉に触れもした。【人が此の世にあるのはほんの僅かの時に過ぎない。そして再び命ノ此の世に現れる前の世界に帰って行く!】何故だろうか、人が此の世に在る前、命はイデーと一緒であった。それが此の世に現れると、命のみが物質の形を与えられる。イデ―は何処へ行ったのだろうか、いまは限りある時間しか現(いま)はにあることを許されない物質として衣裳を着(つけ)命は、見失ったイデ―を探し求める。懐かしく想う人と再びそれに出会う人、見失う人と忘れ去る人、クレーはそれを想いそれに出会い形を与えた。否、その美である姿に命を与えた。彼の画業は見失われたイデ―を求めての旅であり出会いであり、命に宿るイデ―の、イデ―に宿る命の証しであった。クレーにとって、此の世からの旅立ちとは、命が再びイデ―と手と手を取り合い永遠に安らうであろう故郷(ふるさと)への確かなる出立であった。墓碑に刻まれた言葉の由来がここにある。
イデ―はそれを懐かしく想う今日(いまわ)の心に現れるイメージ、クレーは心のスクリ―ンに、とりどりに衣裳をかえて現れるイデ―の待ち恋がれる姿を描き続けた。
抒庵